2017年03月


東京国際大学河田ゼミ 2014~2017年3月31日
河田ゼミⅡHP/Blog(http://kawadazemi.blog.jp/)読者の皆様へ


~ご挨拶~

 本日、2017年3月31日、をもちまして東京国際大学(TIU)、経済学部、スポーツ経済コースの河田ゼミ、ホームページ・ブログを終了させて頂きます。

 昨年7月22日に河田ゼミⅡ生により本BLOGは、河田ゼミの実践演習活動の一環として、スポーツアドミニストレーション力の向上とその効果を実践で会得する為の一つのツールとして開設されました。
 もう一つ、本学のホームページには、どちらかと申しますと写真広告及び古い記事、記録、お知らせ伝言板が多く本来主体であるべき、アカデミックな講義授業、ゼミ活動、研究等に関する掲載が殆ど見当たりませんでした。よって教育の成果、結果の必要性とその重要性を記事として掲載する事により、読者の皆様にゼミ生の実践演習活動を共有して頂けたらと思った次第です。

 小職は、2014年4月にご縁あって本大学に参りました。そして、本学経済学部に所属就任致しました。同年度より本学部には、スポーツ経済コースが新しく設置されましたが、そこでは、スポーツを学部に持ち込んで欲しくないという印象を肌で感じました。また大学の演習(ゼミ)活動においては、その位置付けとコンセプト及びシステムが明快とは言い難いものでした。
 過去3年間、他大学では見受けられない素晴らしい全1年生からの演習(ゼミ)が設置されましたが、2、3、4年生も同様毎年ゼミ演習の名称、システム、カリキュラム内容、制度が目まぐるしく改変指導され、その翌年それを再び変更されるので、指導者のみならず履修学生達は、落ち着いて一貫した指導、演習プログラムを遂行、受講できないのが本学の特徴でありました。

 お預かり致しました過去3年間は、このような現実から荒れ地を開墾し通り道を先ず作る作業に多くのエネルギーを要しました。それは、本学理事長・総長から最初にお願いをされていました「個々の学生を主体とした指導、教育を本学の特徴としておりますのでご指導願いたい」という理念には程遠い現実と環境でありましたので、まさに無から有を生む試行錯誤の連続となりました。

 このような状況、環境下であっても河田ゼミ生達は、担当教員を信じて本当によくついてきてくれました。スポーツの演習には、実践演習活動が不可欠で机上の論理だけでは講義授業同様、知識の付与でしかありません。
 通常の講義授業は、テイーチングによる専門知識の付与と位置付け、一方ゼミ演習は、コーチングによる個々の能力を如何に引き出し、発展させるかをコンセプトと致しております。この環境と状況の中、短期間でいかにバランスよく指導するか、出来るか、また目標に対する成果と結果を少しでも出せるかが指導者に課せられた重い課題でありました。

 河田ゼミに集結した履修生は、誠実で素直且つ優秀な学生達でありましたので、短期間で成果と結果を残せた大きなそれは要因の一つです。
 その成果の一つ大学が掲げる「スポーツ振興とスポーツ教育」に関して、先ず本学学生達に必要且つ急務なのは、スポーツ医科学分野の知識の必要性が重要課題とテーマであるとの考えに至ったことでした。
 例えば本キャンパス内は、たばこの煙が一日中充満し、各ビルの教室内まで煙が立ち込め、学生達(93.5%が非喫煙者)の身体に害を与える状況と環境でありました。講義授業に向かう途中で、学部責任者と学生達(1年生を含む)が一緒になって喫煙しているその姿をよく目にした事があり、その光景は、実に信じがたいものでした。
 このような環境と現実であっても、長年スポーツの指導者及び教員は、スポーツ振興とスポーツ教育の根幹をなす学生の健康を真剣に考えず、改善する為の行動力と勇気を持ち合わせていない現状を非常に残念に思いました。

 ゼミ生達は、本課題とテーマを実践演習活動に取り入れ(専門資料、グローバル社会の動向、学内アンケート調査、論題、デイベート、報告書作成を通して)学びました。その成果と結果として最終的に大学は、キャンパスの全面禁煙を遅まきながら決断された事が挙げられます。(本BLOG記事原稿NO.4ご参照ください)
 この成果と結果には、全学部生達、学部外教員、Blog読者の方々から河田ゼミ生達の企画力、行動力とその実践力に称賛の嵐を賜った次第です。そして、このことは、河田ゼミ生のみならず、常識ある本学学生達に大きな「活力と自信」を醸成しました。そして学生達による能動的な学習の足跡は、本学の歴史の第一歩を刻む事となりました。まさにゼミ生達の言行一致した行動力と勇気の賜物以外の何ものでもありません。
 これら大学でのスポーツアドミニストレーションに必要な実践演習活動を通して、本BLOGは、その成果を基に内外の皆様方との「コミュニケーションツール」として発信させて頂きました。皆さまからは、毎回温かいご支援、ご指導、ご評価を頂き、おかげさまで本日迄、アクセス件数は、短期間に63、000件を超える驚異的な件数に至っております。スポーツマスメデイアの関係者からは、「同社の関係者の通信教育と捉えて活用させて頂いています。」との過分な評価と報告も頂いております。

 本BLOGは、河田ゼミ生達と読者の皆様方とのコラボレーションによりこのような大きなアクセス数値を頂きました。これも皆様方の河田ゼミへのご関心、ご支援とゼミ生達の積極的な学習努力が融合した結果であります。
 大変短い間ではありましたが、内容の濃い充実したテイーチングとコーチングといった日々の中で、今振り返ってみますと担当教員自身もゼミ生一人ひとりに教えられ、支えてもらえた事に気づかされます。

 本ゼミ生達には、卒業の年まで河田ゼミで過ごして欲しいと思いました、しかし願いかなわず最後まで見届けることができず中途半端になり、担当教員として悔いが残ります。熱心な学生達には、本当に申し訳ない事でした。
 学生達を犠牲にする事は、決してあってはならない事と思います。それゆえ、本学の教育方針には、強い意識とコンセプトに基づく一貫性と持続性を重要視し、学生に約束した事は遵守する大学教育機関であって欲しいと切に願います。

 本年度4月から4年生になるゼミ生は、既に就活の準備を始めています。そして、3年生になるゼミ生達は、既に将来の目標を定めて着々と日々自学演習に取り組んでおります。どうかこの誠実で日々努力をしている本学の学生達に温かいご支援とご指導の程今後共宜しくお願い申し上げます。
 最後に、小職が本学に於いて講義授業で「ご縁」あって出会った学生達、そしてこの素晴らしい優秀な河田ゼミ生達には、これからも“志高く、試練を乗り越え自らの道を選択、決断し、最善を尽くしてほしい”と心から祈念して、読者の皆様への感謝とご挨拶に代えさせて頂きます。
深謝
河田弘道
河田ゼミ担当教員
客員教授(専任)
東京国際大学経済学部
スポーツ経済コース                                                         2017年3月31日、金曜日

はじめに

 この度河田ゼミを終了するにあたり、ゼミ生それぞれが河田ゼミへ、河田先生への思いを述べましたので是非ご覧ください。

 今回は原稿を寄せていない越田も、以前の記事で河田ゼミへの思いを書いておりますので、よろしければ併せてご覧くださいませ。
19.私の河田ゼミへの思い


1.鈴木善之

 先日で河田ゼミの活動は最後となりました。2年間という期間本当にお世話になりました。あっという間の2年間でした。この2年間を思い返しますと私にとって人生の分岐点とも言える2年間だったと思います。
 私にとって本学は第一志望の大学ではありませんでした。第一志望の大学では野球部に入るためのセレクションがあり一次試験、最終選考と当時は2つの技術試験がありました。私は一次を通過したものの最終選考で不合格となりました。それでも野球がやりたい、の一心で「少しでもレベルの高い指導を受けられると大学を」と本学を選択しました。しかしあまり下調べもしないで入学となったため指導者の考えに合わずに困惑する場面は多々ありました。それでも私の本学でのゴール、目標は「神宮に行く事」と心に決め日々トレーニングを積んで参りました。
 そんな日々の転機となったのが先生との出会いでした。1年生の頃に1度だけなんとなく履修した先生の講義が私の人生を変えたのだと思います。毎日学校に来ては寝てばかりで夜のトレーニングに向けての休憩時間のようにキャンパスライフを過ごしていたのを今でも覚えています。そんなに私がとても興味関心を持ち講義に集中していたのも昨日のように感じます。それをきっかけに2年生からのゼミも迷う事なく河田ゼミを選択しました。それからの2年間は本当にあっという間でした。私が本気で将来について考え始めたのも河田ゼミに入ってからです。企業を訪問して調べたり、スポーツ業界について学んだりと多くの知識を付与して頂きました当時、私はレポートなどの書物が本当に苦手で毎日弱音を吐きながらパソコンに向かっていたのを覚えています。あの経験があったからこその今の自分だと思います。
 もしもあの時「第一志望の大学に受かっていたら」と考えますと私はどんな今を過ごしていたんだろうと考える事があります。アイデンティティが野球の1つで形成されていた自分は怪我で野球ができなくなり大学生活中には立ち直れないほどのダメージも送っていたのかもしれません。あの不合格があったからこそ私は先生に出会う事が出来ました。最終選考前の足首の捻挫はもしかしたら「神様からの贈り物」だったのかもしれないと考えるようにもなりました。
 人との出会いとは本当に不思議なものだと思います。怪我がなければ河田先生とも出会うことができなかったかもしれない事、河田先生がいなければK氏とも出会えていませんでした。先生との出会いは自分の人生を大きく変えて頂きました。ここまで自分をいい方向へと導いて頂いて本当にありがとうございます。
 昨年、野球から少し距離をとって就活に備えるという大きな決断について、悩みに悩み、胃腸炎を引き起こしました。それでも決断しきれずに先生に会いにうかがった時本当に真剣に自分の人生について考えて頂いたあの時、溢れそうな涙をこらえて先生の話を聞いていました。
 何時でも真剣に全力でぶつかってくれた先生を私は一生師匠として尊敬します。昨年の決断が間違っていなかったことをこれからの就活で証明してみせます。少しでも早く内定を勝ち取り先生を安心させる御連絡をしたいです。
 ゼミでのまとめを書くと原稿用紙何枚分でも書けそうな気がしてなりません。A41枚と言う制限でしたが超えた事をお許し下さい。就活が決まり次第、卒業旅行に私は、アメリカに行こうと考えております。せっかくアメリカのスポーツを学んだのでこの目で確かめに行きたいです。米国に行けた時に、もし丁度河田先生が米国にいらっしゃいましたらお訪ねさせて下さい。
 就活は、金融と業種まで絞りましたのでぶれる事なく行動してます。河田ゼミでのご指導本当にありがとうございました。これからもどうぞよろしくご指導の程お願いいたします。

文責者:鈴木善之


2.飯酒盃翔太

 私は河田先生に出会えたことで、本当に多くのことを学ぶことができました。また人生において、正しい道を進むヒントを常に与えて下さったことを感謝しています。

 そんな私と先生との出会いは、2014年前期のスポーツ経済学の講義です。今まで勉強などろくにせず、サッカーしかして来なかった私にとって、先生の講義は当初苦痛であったことを覚えています。しかし何度か講義を受け、先生の実戦での経験を聞いているうちに講義が楽しくなり、周りのサッカー部員が脱落していく中、私は来年もこの先生の講義を履修しようと心に決めていました。

 2015年の前期には特殊講義(スポーツ)A(スポーツ・アドミニストレーションA)の講義を履修し、先生の知的財産を少しでも多く吸収しようと講義に臨みました。そんな中、2年生になりチームメイトとなったHさんが先生のゼミに所属していると聞いたので情報を収取し、今後の人生において何が私自身にとって一番大切なのかを考慮しました。いま考えると、この時の決断が私の人生において非常に大きな決断であったに違いないと確信しています。サッカーだけを追い続けるのではなく、大学生として、これから社会人になるにあたって、私自身が一番成長できる環境に身を置こうと決心し、先生のもとでお世話になることを決めました。
 それからの約1年半は、今までにないほど机に向かう数も増え、パソコンを開く回数も増えました。本ゼミでは、スポーツアドミニストレーションを基盤とした初心者、中級者への基礎知識、専門知識の付与と進んでいきました。そして実践演習編に入りまして、まず初めに提案書・企画書・計画書とは何か、そしてプレゼンテーションの方法、新しい知識がどんどん付与され、私の選んだ道は正しかったと感じることができました。

 2016年の春学期には3年生となり、人生に於いて初めて提案書なるものを作成しました。プロの目から見て多くの指摘を頂きましたが、そこから落とし込まれる専門的な知識を何とか自分の糧にしようと思考を凝らしました。
 2016年の秋学期からは、より専門的な企画書の作成に入りました。パソコンの故障により1からの再スタートになり、課題を変更し挑みました。完成に時間が掛かってしまったのと、先生が退任されることにより多くのフィードバックを受けられなかったことが悔やまれます。また就職活動を半年後に控え、就活に向けての知識や心意気、大トロの見つけ方等、本当に多くのことを学ばせていただきました。

 学校側の唐突な決定により、河田ゼミが終焉してしまうのは、本当に不本意ですが、先生から学んだ知識やスキル、観察力や洞察力を糧にこれからも自分の目標を見失うことなく成長して参る所存です。

‟我が河田ゼミは永久に不滅です。”

スピーチ原稿文責者:飯酒盃翔太


3.菊池颯馬

 私は河田ゼミを2年間受講させて頂きました。
私が河田先生と初めて出会ったのは、大学一年生でオリエンテーションが行われたときです。初めは厳しい方がいるなと思っていたのですが、まさか自分の所属するゼミを受け持って頂くことになるとは思いもしませんでした。
 先生に教えて頂いた2年間は、とても濃く、ハードな時間でしたが、その分身についたことはとても多いと感じております。一年生の時はハードなゼミで、目の前のことをこなしていくので精一杯といった感じでした。
 しかし、本当に充実した素晴らしい日々だったと感じております。一年生で行ったキャンパス内禁煙化は私自身にとって、とても大きな自信に繋がりました。喫煙に関しての問題点を調べ、それを踏まえた上でキャンパス内でアンケートを取り、ゼミ内でのディベート、レポートを作成提出し、キャンパス内禁煙化に成功。
こういったしっかりとしたプロセスを踏み、そして成功できたということはとてもいい経験になったと感じております。
 二年生になり、新たな仲間が加わりより一層実践的で、確実なスキルを学べる場として私の中では確立され、重要度を増していきました。
 二年生では実践的な活動として、ブログ活動を行いました。このブログ活動で私は、2つ学びました。それは仲間との信頼関係の重要性、そして責任感の2つです。
 仲間との信頼関係の重要性は、ブログ活動を行う上で、原稿のチェックや日程の調整など、多くのことをゼミ生全員で共有することがありました。
1つでも繋がりが切れると、立ち止まってしまうことがあると感じていたので、とても気をつけておりました。
 そして、2つ目の責任感。
 この責任感という言葉は短く、シンプルなものですが、ブログ活動を行っていくにつれとても重く、重要な言葉なのだと実感していきました。
 もちろんブログ委員長として、多くのことを気をつけなければいけないということもありましたが、外部の様々な方から見て頂くということで、内容に不備はないか、このレポートの文責者は誰なのかなど責任を感じることが多くありました。
 この2年間で河田先生に教えて頂いたことは、全て私が今後必要となってくるスキルばかりだと感じております。正直、2年間という短い期間でしたがここでは語り尽くせないほど、多くのことをご教授して頂きました。
 あと2年あったらどれだけのことを学べたのかと常日頃思っている次第です。しかし残念ながらそうはいかないことになってしまいました。
 今後立ち止まる時があっても、この2年間で学んだことを活かして進めると確信しております。
 本当にありがとうございました。

文責者:菊池 颯馬
河田ゼミ二年生
ブログ委員会  委員長


4.矢野健吾

 「一つの出会いが人生を変えることがある」と、今まで色々な場所で耳にしてきました。私にとっては、河田先生との出会いがまさしく人生を変える出会いだったのだと確信しております。
 本学への入学から二年間、私の大学生活は河田ゼミを中心に動いておりました。河田先生のご指導やお考えに傾倒し、自分の弱い部分を克服しようと励む日々にはキツさの中に確かな充実を感じており、将来が明るく開けていく実感のある日々でもありました。河田先生との出会いは大学入学時のオリエンテーション合宿でありましたので、私は現時点に至るまで大学生活の全てを、自分が心の底から師事した恩師の元で学ぶことが出来たという事です。それはとても幸運な事であり、今ではその巡り合わせに感謝しております。
 河田ゼミでは、かけがえのない友人を得ることもできました。河田先生の下で、同じ方向を見ながら研鑽し合う関係性は、自分を大きく成長させてくれたと実感しております。各自のレポートを読み合わせ、プレゼンを聴き、ブログ会議をする度に、自分には無い仲間の特長が見えて、勉強になりました。ブログ委員会の副委員長を任せていただけたこともありがたく、その中でリーダーシップを発揮できたのは貴重な体験です。私の大学生活を大きく変えてくれたのは、河田先生と河田ゼミ、そして友人たちです。
 この一年間は、ブログを開設し、社会で立場のある多くの方に自分の文章を読んでいただく機会を持つことが出来ました。積み重なるアクセスとコメントが支えになり、自分は見られているのだ。恥ずかしい文章は書けない。と、その時その時のベストを尽くしました。キャンパス内で河田ゼミが知られるようになり、ブログや活動のことで職員の方々や学生に声をかけて頂く度に、自信と誇りが生まれて、自分の内面は大きく変わったと自覚しております。読んでくださる方々に支えられて、ここまで続けてこられました。ありがとうございました。
 3月をもって河田ゼミは終了となりますが、これからの大学生活も、引き続き自分の目標達成に邁進する日々は続きます。週に一回、教室へ行けば河田先生や仲間と共有できるかけがえのない時間が無くなってしまうのは正直寂しく、大学へ通う理由の多くが失われてしまったと感じておりますが、これも一つの社会勉強であると捉えて、もう一度足元を見つめ直し、前向きな姿勢でありたく思います。
 大学四年間を河田ゼミで過ごすことはかないませんでしたが、それでも私は河田ゼミの一員だと自負しております。私の心には「河田ゼミイズム」が根付いており、迷えば立ち戻る場所でもあります。
 夢の様な二年間でした。かけがえのないご縁を頂けたことに感謝し、大学卒業時には先生に笑顔で良いご報告がしたいです。これからは先生がいらっしゃらない中だからこそ、自分に厳しく過ごします。どうもありがとうございました。

文責者:矢野健吾


5.山崎秀明

 私は、一年間という短い間でしたが、河田先生から多くのことを学ばせて頂きました。
 ゼミを選ぶ際、課題などが大変だと聞いてはいましたが、先生の下で学ぶことができるのならと、そんなことは気になりませんでした。
 先生のゼミに入ることができた瞬間を今でも忘れません。先生のゼミに入ることができ、新しい知識を与えて頂く度に本学に入学したのは間違いではなかったと強く感じることができました。
 スポーツが好きな私にとって河田先生から知識を付与して頂くことはこれ以上ない喜びだったのです。
 実際、課題の量は一年次と比べると比にはならない量で大変ではありましたが、共に頑張る仲間がいましたので乗り越えることができました。
 私はスポーツに関して、知らないことがまだまだたくさんあり、自分は無知であると気づくこともできました。そんなかけがいのないものを多く得ることができた貴重な時間でした。
 しかし、そんな貴重な時間を卒業まで過ごせなかったことは非常に残念でなりません。
 私は今、人生の分岐点に立っているのかもしれません。河田ゼミというかけがいのない時間はなくなってしまいましたが、一年間数多くの事を学ばせて頂いたということに変わりはありません。
 その知識や経験を生かすも殺すも自分次第なのです。私には残り二年間の大学生活があります。その時間をどのように過ごしていくか、自分をどこまで伸ばすことができるのか、これが私の将来を変えていくのだと思います。
 この一年、私の大学生活は河田ゼミが中心となっていました。
 それが失われるのは不安ではありますが、これを乗り越え、更に成長していかなければなりません。
 私の人生の中で、この河田ゼミとして過ごしてきた一年間はとても大きなものだと思います。もし河田先生に出会っていなければ私は今どうしているだろうと考えると、正直非常に恐ろしいです。河田先生には間違いなく大学生活というものを充実したものへと変えて頂きました。そんな貴重なものを頂いた河田先生や仲間達には本当に感謝しています。
 賢い人になり、社会で活躍できる人間へと成長することが何よりの恩返しだと思うので、それに向かって邁進し続けたいと思います。
 何か苦しいことがあっても、河田ゼミとしての活動やブログを見直せば、何でも乗り越えられる気がします。本当にありがとうございました。

文責者:山崎秀明


6.村田蒼太

 私は、河田ゼミで二年間お世話になりました。大学生になりたてであった一年生の時は、先生についていくのがやっとでとにかく必死についていきました。でも、河田先生の経験を聞いたり、実践的な活動はとても魅力的で私の大学生活は、とても充実した時間となりました。
 二年生では、新しい仲間も加わり一年生の時以上に充実し、より実践に近づいた活動を行うことができました。
 この二年間の河田ゼミの活動の中で特に印象に残っている活動は、河田ゼミのブログ活動です。ゼミ生みんながほぼブログ初心者で、いざブログを立ち上げるといっても何から始めたらいいのかもわからないというような状態でした。そのような中で、ゼミ生全員で話し合い、意見を共有し、しっかりと形に残すことができたというのはとても貴重な体験、経験であったと思います。さらにこの河田ゼミブログは、私たちの考えていた以上に反響があり、東京国際大学内はもちろん、一般の方にも多く読んでいただき多くの貴重な意見をいただきました。これによって新しい発見があり、私自身視野が広がったと感じています。
 しかし、河田ゼミをそして、河田ゼミブログをさらに大きくより濃いものにしていこうという中で、今年度で活動が終わってしまうというのはとても悲しく、心残りもありますが私が経験した河田ゼミでの二年間は決して無駄になることはありません。大学生活もまだまだ折り返し地点でもあります。その大学生活を充実したものにするために、河田先生がおっしゃっていたように、常に明確な目標を立てて、チャレンジし続けるということを今後も継続したいと思っています。そしてしっかりと結果を出して河田ゼミの活動が無駄ではなかったと自信をもって言えるような残りの大学生活を送りたいと思います。

文責者:村田蒼太


7.綾部蓮

 私は、河田ゼミでの一年間を終えて、多くの事を学び、身に付ける事が出来ました。
 まず、自分自身、一番感じるのが、プレゼンのスキルです。河田ゼミに入ったばかりの時は、自分の原稿を見ながら、ただ読み上げていくだけの発表でしたが、最終的には、原稿を見るのではなく、前を向き、聞き手に対してプレゼンが出来るようになったと感じています。
 そして、自分の仕事をしっかりこなすということがしっかり出来るようになったと感じています。当たり前の事のようですが、自分はこれまであまり仕事をこなせていたとは言えません。
 しかし、河田ゼミでのブログ活動等で、自分に与えられた役割をしっかり果たすという事を、前と比べて出来るようになったと感じています。
 私は、この一年間、河田ゼミで学ぶ事が出来て良かったと思っています。
 これからも、河田ゼミでの一年間を忘れずに、今後に活かしていきたいと思います。

文責者:綾部蓮


終わりに
いかがでしたでしょうか。
次回は3月31日の更新になります。
次回は最後の更新となっております。
テーマ:河田ゼミHP/BLOGの読者の皆様への「ご挨拶」
担当教員:河田弘道
ぜひご覧ください。

Fノート
~初タイトル獲得のための提案書~
 

東京国際大学経済学部経済学科
河田ゼミ所属 飯酒盃翔太

目次

1.はじめに
2.GMとは
3.Jリーグとは
4.川崎フロンターレ
5.川崎フロンターレの歴史
6.2016年シーズンの総括
7.2017年シーズンに向けての補強戦略
8.初タイトル獲得へ
9.おわりに


1.はじめに
 私は東京国際大学経済学部経済学科河田ゼミに所属する、飯酒盃翔太と申します。専攻はスポーツ経済コースで、日々河田ゼミにてスポーツアドミニストレーションをオペレーションの観点と、ビジネスの観点から学んでいます。
 今回は、私のホームタウンである神奈川県川崎市に本拠地を置き、J1リーグに所属する川崎フロンターレが初タイトルを獲得するために、どのような戦略を採るべきか、私が川崎フロンターレのGMであると仮定し、スポーツオペレーションの観点から、戦略を練っていきたいと思います。


2.GMとは
 GMはスポーツ組織・団体において欠かすことのできない重要なコンファクターであり、総合プロデューサーです。そんなGMの主な職責は、球団組織・団体の経営分野とチーム編成分野を統括運営・管理することです。GMは、オーナー、CEO(最高経営者)に近い管理下に位置し、マネージャー(監督)は、GMの管理下に位置しています。
 GMの最重要任務は、スポーツビジネスのCORE(根幹)をなす、選手及びチームの商品価値を強化・向上させることです。


3.Jリーグとは
 Jリーグとは、日本のプロサッカークラブを統括する、公益社団法人日本プロサッカーリーグ、および同法人(JFA)が運営するプロサッカーリーグの略称のことです。主管団体はJリーグに加盟する各クラブになります。
 1993年に10クラブで開幕し、1998年までは1部のみの最大で18クラブによって開催されていました。1999年からJリーグ ディビジョン1(現J1リーグ)とJリーグ ディビジョン2(現J2リーグ)の2部制に移行し、2014年にJ3リーグが創設されました。2016年現在では、53クラブがJリーグに所属しています。
 Jリーグは、Jリーグ百年構想や地域密着を掲げ、日本サッカーの水準向上だけでなく、スポーツ文化の振興、心身の健全な発達への寄与、国際親善などを目的としています。


4.川崎フロンターレ
 川崎フロンターレは、100万都市川崎市をホームタウンに「スポーツ文化の振興及びスポーツによる地域社会への貢献」を理念として、1996年11月に設立いたしました。以来、地元密着のための活動を続けながら、青少年の健全な育成や地域の発展等への貢献を目指して、1999年にはJリーグのクラブに加盟しプロサッカー事業の展開、並びにスポーツの普及・振興活動に取組んでおります。

会社名 株式会社川崎フロンターレ
代表 代表取締役社長 藁科義弘
チーム名 川崎フロンターレ
住所 〒213-0013 神奈川県川崎市高津区末長4-8-52
設立年月日 1996年11月21日
資本金 349,375,000円
株主 (川崎市、富士通株式会社、味の素株式会社、株式会社石川商事、
    株式会社神奈川新聞社、株式会社テレビ神奈川、川崎信用金庫、他)
ホームタウン 神奈川県川崎市
ホームグラウンド 川崎市営等々力陸上競技場(川崎市中原区等々力1-1)
名前の由来 フロンターレとは、イタリア語で「正面」「前飾り」の意味。
      これは常に最前線で挑戦し続けるフロンティアスピリッツ、正面から正々堂々と
      戦う姿勢を表現したものです。
エンブレム 川崎市の花「つつじ」、チームマスコットの「イルカ」、
      チームカラーをあしらい、世界に向けて開かれた活力と、
      魅力ある臨海都市「川崎」をシンボライズしたマークです。
マスコット 「先進技術を生み出す賢さ、臨海都市の海」をシンボライズし、
      フロンターレの目指すスピード、親しみやすさを表現する「イルカ」を
      モチーフにしました。名前は一般公募で選ばれた「ふろん太」です。①


5.川崎フロンターレの歴史
 1995年に創部された「富士通サッカー部」が前身であり、1972年に日本サッカーリーグへ昇格しました。1996年に「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称し、同年11月21日に運営会社となる「富士通川崎スポーツマネジメント株式会社」を設立しました。その後1997年にJリーグ準会員となり、名称が公募によって「川崎フロンターレ」に決定しました。

年度別成績
1999年 J2リーグ加盟 J2リーグ優勝(J1リーグ昇格)
2000年 J1リーグ16位(J2リーグ降格)、Jリーグナビスコカップ準優勝
2001年 J2リーグ7位、天皇杯ベスト4
2002年 J2リーグ4位、天皇杯ベスト8
2003年 J2リーグ3位
2004年 J2リーグ優勝(J1リーグ昇格)
2005年 J1リーグ8位、天皇杯ベスト8
2006年 J1リーグ2位、Jリーグナビスコカップベスト4
2007年 J1リーグ5位、Jリーグヤマザキナビスコカップ準優勝、天皇杯ベスト4、
    AFCチャンピオンズリーグベスト8
2008年 J1リーグ2位
2009年 J1リーグ2位、Jリーグヤマザキナビスコカップ準優勝、天皇杯ベスト8、
    AFCチャンピオンズリーグベスト8
2010年 J1リーグ5位、Jリーグヤマザキナビスコカップベスト4、
    AFCチャンピオンズリーグ出場
2011年 J1リーグ11位
2012年 J1リーグ8位
2013年 J1リーグ3位、Jリーグヤマザキナビスコカップベスト4、天皇杯ベスト8
2014年 J1リーグ6位、Jリーグヤマザキナビスコカップベスト4、
    AFCチャンピオンズリーグベスト16
2015年 J1リーグ6位

 上記の年度別成績からも分かるように、川崎フロンターレはJ1リーグでのタイトルを獲得したことがないため、初タイトル獲得がクラブ・選手・サポーターの悲願となっています。


6.2016年シーズン総括

・2016年シーズン結果
 J1リーグ3位(1st 2位、2st 3位)
 JリーグYBCルヴァンカップ 予選敗退
 天皇杯 準優勝

・2016年シーズン在籍一覧
 GK1 / チョン ソンリョン DF2 / 登里享平 DF3 / 奈良竜樹 DF4 / 井川祐輔
 MF5 / 谷口彰悟 MF6 / 田坂祐介 MF7 / 橋本晃司 DF8 / 小宮山尊信FW9 / 森本貴幸
 MF10 / 大島僚太 FW11 / 小林悠 FW13 / 大久保嘉人 MF14 / 中村憲剛
 MF15 / 原川力 MF16 / 長谷川竜也 DF17 / 武岡優斗 DF18 / エウシーニョ
 MF19 / 森谷賢太郎 DF20 / 車屋紳太郎  MF21 / エドゥアルド ネット
 MF22 / 中野嘉大 DF23 / エドゥアルド GK24 / 安藤駿介 MF25 / 狩野健太
 MF26 / 三好康児 FW27 / 大塚翔平 DF28 / 板倉滉 GK29 / 高木駿
 GK30 / 新井章太 MF31 / 田中碧  MF32 / デューク カルロス
 監督 / 風間八宏
 コーチ / 鬼木達 コーチ / 久野智昭 コーチ / 森一哉 GKコーチ / 菊池新吉
 TRコーチ / 川崎英正 ドクター / 岩噌弘志 ドクター / 後藤秀隆
 Aトレーナー / 池田善憲 Aトレーナー / 千葉千里 トレーナー / 高田圭介
 トレーナー / 伊東孝晴 ホペイロ / 伊藤浩之 スカウト / 向島建 スカウト / 伊藤宏樹
 通訳 / 金明豪 通訳 / 中山和也
 主務 / 清水泰博 副務 / 十時剛
 マスコット / ふろん太 マスコット / カブレラ マスコット / ワルンタ ②

・2016年シーズン総括
 開幕から醍醐味である魅力的なサッカーを展開し、初優勝に向け上々のスタートを切りました。開幕戦では前年度の年間チャンピオンである、サンフレッチェ広島に競り勝ち、その後は打ち合いの試合が続く中、順調に勝ち点を積み上げ、第7節の時点では負けなしの首位に位置していました。第8節の浦和レッズとの試合で初黒星を喫し首位の座を明け渡してしまいますが、見事に立て直し1stステージ全17試合をわずか1敗の2位で折り返しました。
 2stも勢いは止まらず、小林選手の7試合連続ゴールなどもあり、上位に位置付けていましたが、怪我や疲労の影響から終盤に失速し2stを3位で終え、年間勝ち点2位でチャンピオンシップへの進出を決めました。
 年間勝ち点1位の浦和レッズが待つ決勝への切符をかけ、年間勝ち点2位の川崎フロンターレと年間勝ち点3位の鹿島アントラーズが、チャンピオンシップ準決勝を戦いました。結果は、後半に値千金のゴールを決めた鹿島アントラーズが勝利し、決勝へコマを進めました。川崎フロンターレは、この結果によりJ1リーグ3位が確定し、悲願の初タイトルにまたも届きませんでした。
 年間勝ち点3位の鹿島アントラーズが優勝し終えた2016年のリーグ戦ですが、2016年シーズンの最後に天皇杯のタイトルをかけた戦いが残されています。
 川崎フロンターレは、ラウンド16で死闘の末、浦和レッズに競り勝ち準々決勝への進出を決めていました。準々決勝の相手は多摩川を挟んだライバルチームであるFC東京との“多摩川クラシコ”です。終始ゲームを支配した川崎フロンターレが勝利し、準決勝への進出を決めました。準決勝の大宮アルディージャとの試合では、終盤に得点を挙げた川崎フロンターレが勝利を掴み、天皇杯決勝への切符を掴みました。
 天皇杯決勝の相手は、奇しくもリーグ優勝への道を阻んだ鹿島アントラーズです。悲願の初タイトル獲得に燃える川崎フロンターレは、サポーターからの大声援を後押しに得点を狙いますが、前半終了直前に失点をしてしまいます。攻めるしかない川崎フロンターレは、後半の早い段階で一瞬のチャンスをものにし同点に追いつきます。その後は、ポスト直撃のシュートなど一進一退の攻防が続きますが、両者とも得点を挙げられず90分が経過し後半終了。両者の維持と維持のぶつかり合いは、大会規定により延長戦によって勝敗が決まります。延長前半、先手を取った鹿島アントラーズが勝ち越しゴールを決めスコアを2-1とします。後がない川崎フロンターレは、攻め立てますが1点が遠くタイムアップ。鹿島アントラーズが、リーグ戦に続き天皇杯のタイトルを獲得しました。川崎フロンターレは、悲願の初タイトルにまたしても、あと一歩届きませんでした。
 2016年シーズンのこのような結果を踏まえ、いま川崎フロンターレに必要なのは、
 ・タイトル獲得経験のある選手並びに監督
 ・個で違いを生み出せる選手
 ・質を落とさない選手層
であると私は確信しています。


7.2017年シーズンに向けての補強戦略

 IN・OUT(2017.1.5現在)
 監督
  風間八宏監督(退任→名古屋グランパス就任)
  鬼木達監督(就任←コーチから昇格)

 新加入選手
  知念慶選手 愛知学院大学(入団内定)
  田中碧選手 川崎フロンターレU-18(昇格内定)
  阿部浩之選手 ガンバ大阪(完全移籍)
  家長昭博選手 大宮アルディージャ(完全移籍)
  舞行龍ジェームズ選手 アルビレックス新潟(完全移籍)

 退団選手
  大久保義人選手(完全移籍→FC東京)
  原川力選手(レンタル移籍→サガン鳥栖)
  中野嘉大選手(レンタル移籍→ベガルタ仙台)
  髙木駿選手(完全移籍→大分トリニータ)

 (注)2017.1.5現在、KAWASAKI FRONTARE OFFICIAL WEBSITE上で公式リリース。

・新加入選手について
 阿部選手は、ガンバ大阪が3冠(リーグ・カップ・天皇杯)を達成した時の中心選手で、影のMVPと言われた選手です。サイドハーフの位置から攻守に渡る豊富な運動量と確かな技術が持ち味です。ガンバ大阪時代のタイトル獲得の経験が、川崎フロンターレに大きなメリットをもたらす存在です。
 家長選手は、日本でも屈指の技術を誇るレフティーの選手です。退団する大久保選手の穴を感じさせない活躍を期待されていますが、それと同時にチーム最年長である中村選手に代わる攻撃の中心としての役割を担える選手です。ポテンシャルは非常に高い選手なので、チームにフィットすれば大きな戦力アップに繋がります。
 舞行龍選手は、ニュージーランド出身のディフェンダーです。空中戦を得意としています。センターバックの自陣空中戦の勝率が良くなかった川崎フロンターレ(谷口選手61.9%24位、エドゥアルド選手59.7%31位、舞行龍選手73.3%2位)にとって貴重な存在になります。

・タイトル獲得経験のある選手並び監督
 風間監督が退任し、一番悩ましい問題であった監督問題。結末は内部昇格という形で、鬼木コーチが風間監督の後を引き継ぎ監督になりました。鬼木監督は、Jリーグの監督が初挑戦となるので、計算しにくい部分も多く一種の賭けに思えるかもしれませんが、私もこの決定には賛成です。
 タイトルを獲得したことのある監督、優勝させることのできる監督を招聘することが、タイトルへの一番の近道であることは間違いないのですが、日本のJリーグには確立された地位の名将が不在のため、チームを作り戦力を強化し優勝するしかありません。川崎フロンターレには、退任した風間監督が築き上げた独自のスタイルがあり、タイトルまであと一歩のところまで迫っています。なので、その独自スタイルを継承しつつ、レベルアップさせることのできる存在がベストなのです。
 鬼木監督は、選手時代は川崎フロンターレで引退をしましたが、前所属チームは鹿島アントラーズであり、常勝軍団のスピリッツも兼ね備えています。なので、外部から招聘するよりも、川崎フロンターレを熟知している新監督のほうが、タイトルには近いと考えます。
 また、タイトル獲得経験のある選手として阿部選手を獲得しましたが、あと数名このような経験を持った選手が必要だと考えます。
 そこで私が獲得を勧める選手は、浦和レッズに所属する那須大輔選手です。那須選手は、横浜Fマリノス時代に2回のリーグ優勝、その後も各チームで3回のカップ戦優勝の経験があります。また、35歳とベテランの選手なのですが、ベテランらしい勝負強さを兼ね備えている選手なので、川崎フロンターレに足りないものを補完してくれる存在だと考えています。浦和レッズでも貴重な存在として重宝されている選手ですが、2016年シーズンは新戦力の台頭によって、出場試合数が前年と比べて約半分しか無かったので、獲得のチャンスはあるとみています。

・個で違いを生み出せる選手
 パスを繋ぎ相手を崩す川崎フロンターレにとって、ドリブルによって個で違いを生み出せる選手は非常に大事なピースとなってきます。数シーズン前まではレナト選手というJ屈指のドリブラーがいましたが、レナト選手が移籍してしまった後、個の力で違いを生み出せる選手がいなくなってしまったのが、勝ちきれない要因であったりします。
 個で違いを生み出すドリブラーと言っても、ドリブラーは大きく分けて2種類のタイプに分けられます。広大なスペースを生かしスピードで相手を抜き去るタイプと技術とタイミングそして一瞬のスピードで相手を抜くタイプに分けられ、川崎フロンターレに必要なタイプは後者です。
 しかし、この補強ポイントは必ずしも外部から獲得しなくても、2016年シーズン台頭を現した三好選手の成長に期待するのも面白いかもしれません。三好選手は、まだ19歳と若くU-19日本代表にも選出されている将来有望な選手です。また、クラブの下部組織出身の選手であるので、商品価値としても高く、これからの川崎フロンターレを背負っていける選手です。川崎のメッシと呼ばれているだけあって、狭いスペースでも安定した技術を発揮できる選手なので、試合を通じて成長し、個で違いを生み出せる選手に成り得る存在です。
 外部チームからの補強を考えるならば、横浜Fマリノスに所属する斎藤学選手の獲得が一番の打開策になります。齋藤選手は日本を代表するドリブラーであり、数少ない違いを生み出せる選手にあたります。そんな齋藤選手は横浜Fマリノスに残留するか海外または国内移籍をするか検討していると聞きます。日本代表クラスの選手であり、補強ポイントに合致する選手なので、獲得すべき選手であると考えます。


8.初タイトル獲得へ
 毎年、あと一歩のところでタイトルを逃し、シルバーコレクターという有り難くない称号を手にしてしまっている川崎フロンターレにとって、タイトル奪取は至上命題となっています。そのために、優勝経験のある人材、個人の力で勝利をもたらせられる人材、幅広い選手層が必要なのです。
 Jリーグ屈指のプレーヤーである、キャプテンの中村憲剛選手も今年で37歳となります。この川崎一筋のバンディエラと共に、初タイトルを掲げることが多くのサポーターの願いでもあります。
 そのためにも、2016年シーズン一番魅力的なサッカーをしていたと評されるチームにプラスアルファをし、2017年シーズンこそ悲願の初タイトル獲得へ向かっていかなければなりません。
 上記に記述した選手や、同タイプの選手を獲得することで、タイトルを獲得できると私は確信しています。


9.おわりに
 今回のご提案は、僭越ではございますが、川崎フロンターレのファンである大学生の私が外部から見た視点での考察とさせていただきました。現場からの視点は、また違った角度からの視点があることは重々承知しております。良いチームというのは、一つ一つのピースが、パズルのように上手く重なり合って生まれるものです。川崎フロンターレが、より良いチームとなり、悲願の初タイトルを獲得することを心から願っています。
 御耳障りの点が多々あったとは思いますが、拝読ありがとうございました。なお、お気づきの点が御座いましたら、ご指導のほど宜しくお願い申し上げます。

① http://www.frontale.co.jp/about/club_profile.html
② http://www.frontale.co.jp/profile/2016/index.html

文責者 飯酒盃翔太

ドラフトに関する提案書
~ドラフトにおける戦力均衡に付いて~


東京国際大学経済学部経済学科
河田ゼミ所属 鈴木 善之


目次

1.はじめに
2.ドラフトの始まり
3.NPBのドラフト制度
4.欧州のプロリーグ状況
5.ドラフト制度の現状
6.FAによる戦力の不均衡
7.ドラフトのルール改善
8.ドラフトの必要性
9.新人獲得手段の見直し
10.おわりに


1.はじめに
 現在プロ野球を夢見る球児たちがプロの世界に入り込むために一番に頭に浮かんでくるのが、「活躍して、スカウトの目にとまり、ドラフト上位でプロの世界に飛び込もう」だと思います。このように考えている高校球児や大学野球の選手は日本に数多くいると思います。真っ先にプロ野球選手になる手段としてドラフト会議が頭に浮かんでくるのが今の日本プロ野球です。もちろん、多くの今日本球界で活躍している選手たちは高校で甲子園に出場して活躍した選手や、大学時代に有名であった選手ばかりが一軍で活躍し、シーズン終わりに大金を受け取り野球少年に夢を与え続けています。しかし、その表とは裏腹にMLBやNPBでもドラフトを経て入団していない選手が目立ってくるようになりました。これによりチーム戦力にばらつきが目立ち始め、ドラフトが年々形骸化してきています。本来ドラフト会議において戦力均衡が最も重要であると私は考えます。ここではドラフト制度は戦力の均衡が一番重要であることをテーマに進めて行きたいと思います。

ドラフト:新人選手を選択する会議。1965年、契約金の抑制と戦力均等化が目的。


2.ドラフトの始まり
 リーグの発展に伴って有望な選手との契約を目指すチーム同士が競い合い、新人選手の獲得費用の高騰が進んでいたNFLが、契約金の抑制を目的として新人選手との交渉権利の分配を目的に初めて導入したのがドラフトの始まりとなっています。

NFL:ナショナルフットボールリーグ(全米フットボール連盟)


3.NPBのドラフト制度 「日本プロ野球のドラフトの始まりは1964年に行われた第一回ドラフト会議が始まりです。ここでは、事前に各球団が獲得を希望する選手(30名以内)に順位を付けた名簿を提出して、名簿1位が重複した場合には抽選を行い、外れた球団は名簿2位の選手を代わりに獲得するというようにしてドラフト1位選手を確定するという独特の方式で行われた。これはドラフト1位の指名だけであり、ドラフト2位以下は通常のウェーバー方式と逆ウェーバー方式での指名を交互に行いました。そこから細かくルールが変更されていき現在に至っています。」①

NPB:日本野球機構
ウェーバー方式:最下位のチームから順に選手を指名していく方式

 ドラフトでの選手の獲得は大きく分けて、1巡目の「入札抽選」、そして2巡目以降の「ウェーバー制」に分かれます。
 1巡目、すなわち球団が1番はじめに獲得する選手ですが、全球団が希望の選手を同時に提出します。指名が重複したら抽選です。抽選を引き当てた球団が選手を獲得。そして外れてしまった球団はまた別の選手を指名。また被ったら抽選です。これを繰り返して、全球団が決まるまで続けられます。
 2巡目以降はウェーバー制という方法でやっていきます。2014年を例にすると、その年の公式戦の順位が最下位だった球団から選手を1人ずつ指名してきます。まず、セ・リーグ最下位だったヤクルトが1番目、パ・リーグ最下位だった楽天が2番目、セ・リーグ5位だったDENAが3番目…と選手を指名してきます。
 各リーグの順位は、クライマックスシリーズの結果は考慮していません。また、なぜセ・リーグが先かというのは、2014年のドラフトのルールでは、オールスター・ゲームの結果がよかった方でということになっていたからです。2014年のオールスター・ゲーム第1戦はセ7-0パ、第2戦はセ6-12パ。どちらも1勝1敗ですが、得失点差でセ・リーグとなりました。
 3巡目は、2巡目の逆。2014年であればパ・リーグで1位だったソフトバンクから指名していきました。4巡目は3巡目の逆、すなわち2巡目と同じ。
 これを繰り返し、全球団が選択終了となるか、選択された選手が120人になるかでドラフト終了です。原則として1つの球団が獲得できる選手は10人までですが、他の球団が10人未満で120人に達していなければ11人以上も可能です。
 実際のところ、ここ最近は70人前後っていうことが多く、各球団の獲得人数も10人以上もありますが、せいぜい7,8人といったところ。4人とかいうことも珍しくないです。
 各球団の担当者はドラフトのために戦略をあれこれ考えてきます。1巡目の指名は彼だけど、重複して抽選で当たったら2巡目はこの人にしよう、というように。どの球団も注目しているような選手をいかに獲得するか、もしくはあえて選択しないのかというのももちろん重要ですが、逸材を見つけ出すのもスカウトの腕の見せどころといえます。
 「1991年のドラフト会議ではイチロー選手はオリックスから6位指名でした。イチロー選手は甲子園に出場していたのでどの球団のスカウト担当者もイチローを見ていたのですが、当時はピッチャー。ピッチャーとしてではなく、バッターとしての能力を見抜いたのがオリックスだったのです。」②
 現在ではそれに加えて、各チームが選手と自由に契約できると金銭的に余裕のあるチームに戦力が偏ってしまい、一方的な試合が増加しそのプロリーグ全体の人気が低迷状態に陥ることを防ぐ戦力均衡を主目的の1つにした制度であるという趣旨説明が一般的になされています。北米のプロリーグでは、TV放映の収入を試合の人気に関わらず、各チームに平等に分配するなどして、予算面でも全てのチームの実力が拮抗するように工夫されています。


4.欧州のプロリーグ状況
 「一方で、欧州をはじめとした多くの国では、プロスポーツリーグの選手獲得や移籍については完全な自由競争が原則となっており、チーム側を見ても最上位のカテゴリのリーグに参加できるチームの数に制限はあるものの、プロチーム自体の数に対する制限や新規参入への障壁は設けられておらず、一口にプロリーグといっても1つの国で最上位カテゴリから地域末端の下部カテゴリまでに合計百を超えるチームがひしめき合っていることもある。」③
 「これらのプロチームは強化戦略や資金力などを勘案しながら数千に及ぶ選手と自由に交渉し、双方が交渉内容に納得すれば契約を締結する。ただし、リーグ運営上の観点から、シーズン中に選手がコロコロと移籍したり、チームが補強名目で選手を大量にトレードしたり勝手な引き抜きを行うようなことがない様に、完全な自由競争が原則であってもシーズン中の移籍・トレードや契約の破棄については禁止や手続上の制限などといった規約が各プロリーグにその実情に応じて設けられています。一方、ヨーロッパでもアイスホッケー・KHLに限っては所属チームが少ないため例外的にドラフト会議が採用されています。」④
 しかし、NFL及び、NBAは原則として高校生をドラフトの対象からはずしている。身体の接触の多いスポーツなので体が完成していなし高校生を対象外とし、NBA高校を卒業してからは1年、NFLは2年経た選手をドラフトの対称にしています。

KHL:コンチネンタル・ホッケー・リーグ(プロアイスホッケーのリーグの1つ)
NBA:全米バスケットボール協会


5.ドラフト制度の現状
 ドラフト会議で指名される選手の側からすれば、本来もっているはずの球団選択の自由の権利を、リーグ側の経営目的によって阻害され行使できないという問題ともなります。また、指名の際に「○○チームのドラフト○位」や「ドラフト全体順位○位」といった具合に順位付けがされるため、即戦力としての評価がストレートに表れ、低順位であるほど当座の評価や期待値が低い選手であると見なされてしまう。あくまでも交渉権を決めるための会議であるため、指名されてもその時点では入団決定ならず前出などの理由から拒否する選手も現れています。
 さらにカープはドラフト会議でも選手が入団先を決められる「逆指名」があった2006年までは、カープのスカウトが即戦力となる選手の視察に訪れても、門前払いをされる事もありました。
 ドラフトがなんのためにあるのか疑問を感じる矛盾点です。しかし、逆指名制度はなくなり、ここまで極端に入団を拒否する選手の出現こそなくなりましたが、巨人の菅野投手のようにわざわざ1年入団を遅らせてまで指名を拒否する選手も現れました。こうした選手の出現は絶対にあってはならない結果です。そのため指名を拒否して入団を拒む選手には次のドラフトで指名されるまで3年~5年の重いペナルティーを与えるべきです。未然に防ぐため新しいグレーゾーンのない明文化されたルールが必要です。処罰を重くして何としてもこのような結果を避けます。


6.FAによる戦力の不均衡
 FAとは、他球団へ自由に移籍できる権利を言います。長年その球団でプレーをした、言わば選手への対価として与えられる権利です。
 「獲得を希望する選手との入団「交渉権」を分配するための会議であるが、近年特にリーグを単一の企業体としてみなすリーグにおいて事前にリーグにてトライアウト等で選別された選手を分配するという単純に戦力均衡の手段としてのみを目的とする会議も増加している。また、選手獲得をドラフト入団に限定するリーグとドラフト外入団を認めるリーグが存在する。」⑤
 今の日本プロ野球は後者でありドラフトを経てない選手が多く存在します。MLBは2004年シーズン、1軍ロースター入りした750選手中22%もの選手がドラフトを経ていない選手でした。およそ5人に1人がドラフトを経ていない選手なのでこの選手たちが活躍しだすとさらに状況は悪化します。この選手が活躍しだすことで契約金が高騰しそれに負けまいとドラフト対象の選手も高額に契約金を要求してくるようになります。ドラフト一巡氏名選手の中央値は1990年の22万5000ドルから2000年には178万ドルにまで跳ね上がりました。こうしたことで選手が望んだ契約金をもらえない契約を拒みドラフトしたチームが交渉権を失う事態も起こるようになりました。そしてしまいには低収入チームは有望新人選手とは契約できないと考え、指名権を失うことを恐れて有望選手の指名を見送るようになりました。高収入チームは、ドラフト選択順が下位であっても、ドラフト非対象外国人選手同様に国内有望選手を手中に収めていくようになったのです。
 過去に、広島カープでも江藤内野手、金本外野手が次々と資金力のある球団へと流出することがありました。5位に沈んだ2007年が象徴で2005年本塁打王、新井内野手が阪神へ、最多勝の黒田投手が米大リーグのドジャースへと、タイトル経験者二人が同時にカープから離れる結果になりました。


7.ドラフトのルール改善
 本来ドラフトは、戦力均衡が一番の目的なのにもかかわらずその年にリーグで一番勝率のいいチームと悪いチームが同じ選手を指名した場合、日本はクジで交渉権を争います。しかし、ここで仮に勝率のいい方のチームに交渉権が渉った場合この2チーム間の戦力差は更にひらきます。ドラフトの目的は「戦力の均衡」です。これではドラフトの意味がありません。そこでクジ引きなどはしないで指名した瞬間に交渉権獲得とします。それをこれまで通り1位はウェーバー制(下位のチームから順に指名する制度)で、2位は逆ウェーバー製でやっていきます。球団の中には、1番ほしい選手がいてもその選手は他球団との争いになりそうなため、あえて避けて他の選手を確実に取りに行くこともあるでしょう。しかし、ドラフト1位とはその球団が1番欲している選手です。基本的には即戦力となる選手を指名する傾向にあります。戦力が低迷している球団にこそ、その選手を獲得できるように1順目の獲得ルールを改善するべきだと思います。


8.ドラフトの必要性
 スポーツビジネスにおいて、いかにして勝敗の行方がわからない状態が長く続くか(予測不可能性を高めること)がリーグ戦を盛り上げるために必須である。過去に読売巨人軍がV9という偉業を達成した。本来リーグ戦において9連覇などありえないことです。いかに戦力差が激しく開いていたかが伺えます。ドラフト会議というものがなければ巨人は10連覇も20連覇もしていたかもしれません。巨人ファンですら、面白みにかけている状況です。他球団ファンからするともはや自分のひいき球団も応援するきになれないような気分になるでしょう。この悪い歯車を止めるためにドラフトは存在します。しかし今のままのルールでは財力のある球団がまた連覇を積み重ねて行く恐れがあるます。このまま ではプロ野球界の衰退にどんどん拍車がかかっていく結果につながります。
 近年では、日本においてサッカー人気が加速されてきている現状です。野球人口がサッカーに流れているといっても過言ではないでしょう。これ以上この野球離れが加速されないようにプロ野球界をさらに盛り上げていくことが何より大切です。そこで戦力均衡は今すぐにでも改善すべき点です。


9.新人獲得手段の見直し
 戦力均衡を実現していくために、NPB全体で新人獲得手段を見直していく必要があります。ドラフト以外の問題点もあげられます。フリーエージェント(FA)制度です。いっそのことフリーエージェント制度そのものを廃止にしたいですが、職業選択の自由があるため完全廃止は困難です。フリーエージェントはその球団に7年もの間拘束されたその対価として与えられるものです。FAは選手にとってはご褒美のようなものです。そのためFA制度の見直しよりもFAで開かれる戦力差を埋める新たなルールが必要です。
 そこでNPBでもルールに追加すべきなのが「サンドイッチ指名権」です。MLB2002年にドラフト一巡選手と契約できなかったチームに翌年のドラフトで第1巡での追加指名権を、同様に第1巡選手と契約できなかったチームには第2巡と3巡の間に追加で「サンドイッチ指名権」を与えています。昨年に補強に失敗した分を翌年に補うという感覚です。この制度を導入することで長い目で見ると戦力は大きく均衡に向かいます。
 そして最後にMLBでも意見がでていながら現実には至っていない「戦力バランスドラフト」も導入です。これは毎年下位8チームがプレーオフに出場した8チームのマイナーリーグから選手を指名できるというもので毎年5月に行われているマイナーリーグ内のドラフトでの囲い込みを防ぐ狙いがあります。これをNPBで採用する場合、そのシーズン終了後Bクラスで終わった3チームが、クライマックスに出場した3チームのシーズン通して1軍出場が5試合以下の選手をシーズンが確実に終わる12月にドラフトで引き抜ける形を作ります。シーズンが終わったあとなら選手側の負担も極力少なくすみます。そしてなにより巨大な戦力を誇った球団で埋もれている現状を打破できます。


10.おわりに
 現状、プロ野球において連覇という言葉は多く耳にします。今年もソフトバンクは前半戦、圧倒的な力を見せつけ連覇は疑いようがないと思っていました。しかし、2位の日本ハムがジワジワと追い上げていく結果に日本中が手に汗を握りながら1試合1試合を見守っていました。結果的には、怪我で主力を欠いたソフトバンクを日ハムが追い抜く結果になりましたが、どっちが優勝するかわからない状況はハラハラしました。
 プロ野球もスポーツビジネスである以上、商品価値のあるものにしなければなりません。多くのファンがスタジアムまで足を運び、観戦したいと思わせなければいけません。そのためにも2016年シーズンの日本ハム、ソフトバンクのように白熱した接戦を毎シーズン各球団が演じて欲しいです。現状では戦力が傾き、他球団に比べ商品価値の劣っている球団が存在するのは事実です。現状1番の戦力を傾けている原因はドラフト1位の決め方です。 そしてFAで資金力のある球団に有力選手が引っこ抜かれること。提案書の内容でドラフトを見直して行くことで長い目で見たとき、必ずこれからのプロ野球を盛り上げる結果につながっていきます。
 今後の日本プロ野球において連覇というものを少しでもなくしていけるように新人獲得方法を少しでも改善していくべきです。両リーグとも毎年のようにAクラスとBクラスがドンドン激しく入れ替わって行くような、そんなプロ野球界に進んでいって欲しいと願います。
 長い時間、ご拝読ありがとうございました。なにかお気づきの点がありましたら、ご指導頂けると幸いです。ご協力ありがとうございました。

文責者:鈴木 善之

①http://home.a07.itscom.net/kazoo/draft/hensen.htm
②http://momo-tokei.hatenablog.com/entry/
③http://blog.livedoor.jp/augustoparty/archives/51744615.html
④http://drbcs.dreamlog.jp/archives/51844908.html
⑤http://www.soccer-king.jp/news/japan/japan_other/20131026/143961.html

1.東京五輪招致問題概要
2.電通のスポーツ事業への関与
3.復興五輪
4.開催時期
5.スポンサー

はじめに

 本記事は、東京国際大学・河田ゼミⅡに所属する学生が、2016年の夏休みに仕上げたレポート「2020年東京五輪招致活動についての研究」の総まとめです。各自がテーマをもって調べたレポートを再構成した記事となっております。各個人のレポートにつきましては、こちらをご覧ください。
→【ゼミ生レポート】東京五輪招致活動に関して
→【
ゼミ生レポート】東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会について
→ 【
ゼミ生レポート】2020年東京五輪招致活動についての研究~広告代理店~
→【ゼミ生レポート】2020年東京五輪招致活動についての研究

1.概要
 本件は、英紙『ガーディアン』が2016年5月11日、東京五輪招致の買収疑惑を報じた事に端を発します。12日のフランス検察当局の発表から、2020年東京五輪の招致活動において、招致委員会がシンガポールのコンサルタント会社「ブラックタイディング社」(BT社)へと支払った計2億3000万円のコンサルタント料はIOC(国際オリンピック委員会)委員を務め、アフリカ票に影響力を持っていたラミン・ディアク氏への買収工作の資金だったのではないかとの疑惑を深めました。招致委員会がコンサルタントを選定した際、一般財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会のマーケティング専任代理店を務めた、株式会社電通が関与しているとみられております。WADAの独立調査委員会の報告書には、電通の関連会社である「電通スポーツ」が国際陸上競技連盟(IAAF)から与えられた商業的権利の配分を行う会社、athlete management&services(ASM社)をつくり、コンサルタントとしてBT社のタン・トンタン氏を雇っていたと記されていました。つまり、電通とタン氏は、元々浅からぬ関係にあったのですWADAの報告書には、「『マーケティング・コンサルタント業』が、不当な賄賂を隠す便利な隠れ蓑であることは捜査当局間の共通認識である」との記載もあります。これは、日本オリンピック委員会(JOC)が繰り返す「コンサルタント業に対する適切な対価であり、問題ない」との説明が、いかに説得力のないものであるか鋭く指摘しています。

 電通の元専務で東京五輪組織員会の理事でもある高橋治之氏も、本件への関与が指摘されており、『週刊文春』にて高橋氏が代表を務めるコンサルタント会社「コモンズ」に招致委員会から招致活動の調整が依頼されたとあります。しかし、竹田恒和会長も本人も関与を否定しております。
 今回の騒動でコンサルタントと呼ばれる人たちの活動の不透明さ、そしてそれを選び、契約するJOC側の管理の甘さが浮き彫りになりました。
JOCの調査チームの報告書をまとめると、以下の内容となります。
1、BT社に支払ったコンサルタント料は想定予算を大きく超え、相対的に高額だが、不当とまでは言えない。
2、BT社とパパマッサタ氏に親交があることは知らず、契約の際にも贈与の認識はなかった。コンサルタント契約の内容や締結過程は日本やフランスの法律に違反せず、国際オリンピック委員会の倫理規定違反もない。
3、BT社との最初の契約の際、事務方から成功報酬を別途支払う内容であることが竹田恒和理事長に説明されておらず、手続きの透明性に一定の問題がある。
4、招致委員会は寄り合い所帯的な雰囲気で、意思疎通が不十分だった。結果、契約内容や締結過程で様々な疑惑や疑念を抱かれた。
http://www.asahi.com/articles/ASJ9133GSJ91UTQP00G.html

2.電通のスポーツ事業への関与
 電通は、1980年にロサンゼルス・オリンピック組織委員会(LAOOC)との間に日本企業に対する公式のスポンサー交渉権、公式エンブレムとマスコットキャラクターの日本における独占使用許諾権、アニメ化・出版化・映画化の権利、入場券取扱いの諸権利の独占的行使について契約を結びました。LAOOC委員長であるピーター・ユベロス氏が舵を取り、1984年のロサンゼルス・オリンピック大会でオリンピックの商業化が進められると、民間資本活用の為にスポンサーシップ集めが必要となりました。その際に広告代理店の協力を必要とし、最低限の保証ギャランティーが可能な資金力のある代理店として、電通が選ばれました。以来、電通はスポーツ事業に関与するようになり現在に至ります。
  電通と国際陸上競技連盟が関係を持ったのは世界陸上でのスポンサー集めでした。世界陸上のスポンサー枠を埋めたのが電通であり、それ以来電通とディアク氏は密接な関係を築いておりました。今回、電通とディアク氏の間に入って裏金を流したとされているタン氏は、電通の子会社であるathlete management &services(ASM社)に雇われたコンサルタントであることから、電通は本件における関与は甚大なものだったのではないでしょうか。当時の「電通スポーツヨーロッパ」の社長は中村潔氏であり、中村氏は高橋氏の部下でした。中村氏は、ディアク氏と密接な関係を築いていたとの報道も出ております(19)。しかし反面、電通の広報担当者が「AMS社は取引相手であり、タン氏が電通のコンサルタントであったという事実はない。」と話したと伝える報道もあります。

3.復興五輪
 「復興五輪」として野球とソフトボールを福島市で開催しようという動きがあります。もちろん開催するにあたって競技場の規模の問題であったり、施設の問題、アクセスの問題など様々な問題点もありますが、開幕戦の一試合だけでも開催することで、復興に近づき世界に日本の素晴らしさ、力強さをアピールするチャンスでもあると思います。 そして2020年東京オリンピックが終わった時に良いオリンピックだった。と国民に納得してもらい、日本全体に活気が生まれたときに初めて東京オリンピックが成功したといえるのだと思います。その為に、問題にしっかりと向き合い改善に全力を注ぐことが求められています。
 また、オリンピックを盛り上げる為にはチケットの販売という部分が必要かと思います。今日本の中では、人気アーティストのチケット等が高額チケットに流れているということが問題になっています。その対策として、チケットを購入した本人か否か確認するといった対応を取っています。さらに最新のシステムとして、人の顔をコンピューターによって判断し入場することが出来るというのも試験段階にあります。チケット問題で忘れてはいけないのは、パラリンピックのチケットの問題です。リオオリンピック後に行われたリオパラリンピックのチケットの売り上げというのは決して高いものではありません。メディアでパラリンピックを取り上げなければ、競技の良さを知る機会もなく、選手やチームを応援しようという気持ちは湧いてこないのではないでしょうか。メディアの力をうまく活用することができれば、チケット売り上げにも大きな影響を与えることが出来ます。
 次にグッズ販売です。チケット販売にも言えることですが、グッズ販売は世界各国の人がターゲットです。リオオリンピックでは、日本の報道陣がつけていたピカチュウのピンバッチが注目を集めました。日本のアニメの評価と認知度の高さを、グッズ販売に生かすことが重要なのではないでしょうか。そして、グッズ販売をきっかけとして、その他さまざまな産業が売り上げを伸ばすことにつながり、東京オリンピックの経済効果に後押しされる形で復興にもつながっていくのではないかと考えます。

4.開催時期
 東京近辺の暑さが年々厳しさを増す中で2020年は今よりさらに過酷な環境になっているかもしれないと考えると、安全面はまだまだな部分があると感じます。
 2012年に夏季オリンピックが開催されたロンドンでは、朝・夕方は綿のセーターを着てちょうどいいくらいで、大会期間中も快適な気温だったといいます。1964年東京五輪の開会式は10月10日でした。7月~8月の開催は暑さ、湿度、食中毒などの衛生面の懸念から却下となったためです。しかし、2020年東京五輪は7月24日に開会式が行われる予定となっております。1964年東京五輪の事例を考慮し、9月下旬や10月上旬の開催にするべきであるように思われますが、IOCがそれを許しません。
 IOCは、大会開催期間を7月15日~8月31日の期間内に収まるよう、立候補地に求めています。秋になると、欧州サッカーや米国の人気スポーツと競合しなければならないためです。ドーハは酷暑を避けようと2020年のオリンピック大会に10月開催という条件で招致に挑みましたが、一次選考で落選しています。主な理由は「テレビ放送時間を確保しづらいから」というものです。選手、観客、審判の安全や体調よりもテレビの放送時間を優先させるのは、五輪憲章の謳う「選手の健康を守る施策を奨励、支援すること」「スポーツを商業的に悪用することに反対」という理念に矛盾しているよう見受けられます。各競技の国際連盟も、放送権料を原資とするIOCからの補助金が収入の多くを占める為、反対しづらい状況にあるといいます。
  IOC委員の皆様には、7月、8月に来日していただき、その時期の日本がどれほどの暑さなのか。その中での五輪開催がどれだけ危険なのか。を体感していただければと思う次第です。

5.スポンサー
 現在の五輪スポンサーには、全世界で五輪マークを使え、IOCと契約する「最上位スポンサー」があります。このほか日本では、日本オリンピック委員会と契約し、国内だけでJOCマークを使用することが出来る「オフィシャルパートナー」、オフィシャルパートナーと同等の権利に加えて特典(JOC・日本代表選手団に対する権利、パートナータイアップに対する権利、選手肖像に関する権利、パートナーリコグニションに関する権利)が付与される「ゴールドパートナー」の二種類があります(1)。
 オフィシャルパートナーには、味の素、三菱電機、ヤマトホールディングスなどが名を連ねています。こうしてスポンサーとなっていく企業も多くありますが、慎重な姿勢の企業も多くあります。その企業の一つがパナソニックです。4年間で100億円前後とされるスポンサー料は、二年連続の巨額赤字に陥ったパナソニックの身に重くのしかかっており、迷っていましたが、東京五輪のワールドワイドオリンピックパートナーに名を連ねました。
 ワールドワイドスポンサーと呼ばれるスポンサーにトヨタ自動車がなりました。TOPスポンサーには、五輪マークを世界中で自社商品の宣伝広告に使用できるという利点があります。TOPスポンサーとは、国際オリンピック委員会と契約しているパートナーです。このTOPスポンサーには一業者一社までという規定があります。これまで、オリンピックマーケティングのスポンサーシップの中のTOPスポンサーに自動車企業が入ったことはありませんでした。契約金は1000億円を超え、最高で2000億円とも言われています。国際オリンピック委員会によると、2012年のロンドン五輪までの4年間のTOPスポンサー1社あたりの年間契約額は、平均約26億円です。高額な契約金の背景には、アベノミクスによる円安を追い風に、2015年3月期に過去最高の2兆7000億円に膨らむ見通しとなっていた営業利益があります。業績が順調な企業の余裕が高額な契約金へと繋がっているのではないかと思います。
 トヨタ自動車は東京五輪にて、昨年末に世界に先駆けて市販した燃料電池車や安全運転技術などを、世界の運営車両に提供する見通しです。最新技術を消費者に独占的にアピールすることのできる格好の場となり、未来の乗り物はこういうことが出来ると世界に認めてもらうことが狙いの一つです。
 国際オリンピック委員会としては、人気の再構築に向け、世界中のケーブルテレビで一年を通じて五輪の名場面や話題を提供する五輪チャンネル構想を進める会長にとって、トヨタからの破格のオファーは、新たな原資として非常に魅力的であったのです。
 現在のように裏金疑惑の真相が曖昧な状態で本番を迎えるよりも、しっかりと調査を行い、真相をはっきりさせることでスポンサーとなった企業も今以上に効果を望むことが出来、契約金に見合った経済効果が約束されてくるのではないでしょうか。


おわりに
 2020年東京五輪の招致が決定し、日本国内でも期待感が高まっている反面、裏には疑惑や問題が多く残っております。これらが解決されることによってはじめて、東京五輪に対する不信感や不安が払しょくされ、成功へとつながるのではないかと存じます。
 問題の追及は難しい事であるかもしれませんが、マスコミの皆様には勇気を持った報道をしていただきたいと思うと同時に、私たちも本件の背景を知ることで、問題の本質を理解する努力をしていきたいと考えます。


文責者:菊池颯馬・矢野健吾・村田蒼太・山崎秀明

↑このページのトップヘ